戦争とデザイン、そして美術について
ヴィレム・フルッサーは、ゲーテの「高貴で、人の助けとなり、良き者であれ」という言葉を、現代向けに「デザイナーは優雅で、ユーザーフレンドリーで、良き者であれ」と移調した。例えばナイフをデザインするのであれば、それは通常と違った上品なものであり、特別な予備知識なしに使いやすく便利なものであり、かつよく切れる有能なものであれ、ということだ。このナイフは当然、デザインされるものであれば椅子にもミサイルにも置換できる。そしてこの、より「良く」するというデザイン、そして人の命題は、今日においては「戦争」というひとつの形となって私たちを取り巻いている。「もしわれわれの祖先が一万年前のアフリカで、優雅かつユーザーフレンドリーかつ良きのもである(よって優雅で便利に殺せる)矢じりを当時設計していなかったら、たぶんわれわれは今日でも、お互いや動物に対して歯と爪で攻撃しなくてはいけないだろう」戦争は、デザインの一つの源泉なのである。だとすれば、当然次のようなジレンマが生じる「戦争し。そのおかげで優雅でユーザーフレンドリーな生活を、良い者に囲まれて送るのか、それとも、永遠平和を享受し、そのせいで野卑で不便な生活を、粗悪にしか機能しない者に囲まれて送るのか。言い換えるなら、悪だが便利か、それとも不便だが聖か。」
しかし歴史上には、人の命題に沿って進みつつも、つまり進歩しつつも、あえて粗悪な方向に進んだものがある。それらは優雅ではあるかもしれないが、ユーザーフレンドリーでも、良きのもでもない。むしろあえて使いづらく、避難を浴びるようにさえ設計されてさえいる。だが後世の私たちはそれらに影響を受け、その概念は広く浸透している。彼らの仕事は、ユーザーフレンドリーさも良さも取り扱わず、人の価値感覚をシフトすることによって、新たな方向に人々を誘導したという一面がある。そしてその価値観のシフトは、現代美術がひとつ目標とするものなのである。
フルッサーの言葉は、今日の日本に生きる私たちにはとても切実に感じられる。私たちはまさしく、命の危険があるが、24時間買い物や娯楽が享受できる生活をするか、健康でいられるが、電力その他に依存せず生活をするか、という天秤を目の前にしている。しかし私たちは、スマートフォンを手放すことはできるかもしれないが、矢じりまでもを捨てることはできないだろう。であれば、価値観を再びシフトし、この行き止まりを避け他の道を行くしかない。それにより、すべては解決せずとも、重大な危機は乗り越えられるかもしれない。
*「」内の文は、ヴィレム・フルッサー『デザインの小さな哲学』(鹿島出版会)より引用